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2024年11月24日
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花丸6話ショックからJEのフラッシュバックを経て気付いたこと

2016年11月12日
●久々に立て続けにブログを書いている。
 要するにまぁちょっと拗らせていることがあるってだけなんですが。

 どうも、花丸6話見てからJEと同じ気配を感じ、そこからずるずるなんかいろいろ思い出して悶々としておりましてですね。そうしたら身内にえらい心配されてしまいまして。
 なんだかかえって申し訳なく……orz


 わたしはただ単純に「すっきりしない」から「気持ちが悪い(おさまりがつかない)」ってだけなんですよ。ほんとうにひたすら悶々としてしまう…てだけで。
 それをこう、身内に指摘されたことをとっかかりに、改めて分析・整理してみた次第。
 興味のある方だけどうぞ。
 半分私信みたいな内容で恐縮です。


拍手[1回]



 改めて今回の花丸6話からのJEフラッシュバックみたいな現状は、恐らくわたしが声フェチなのも一因としてあると思います。

 さて、わたしは声が同じでないとキャラのビジュアルが同じでもそれを同一視できない種類の人間です(実は舞台を許容できない理由の半分くらいがこれなんですが)。
 ただ、裏を返せばそれは、声が乗るものに対しては同じ声・同じビジュアル(CGとアニメの差はあれど)なら、それらを「同一世界観上に存在するものと見做せてしまう」ということでもあります(そしてそう見做しているんですが)。

 それは違うだろう、という御意見もあろうと思います。
 中には「次元が異なっても(ゲーム・アニメなどの2次元と、舞台・実写という3次元)、キャラが同じなんだから全部同じであると見做すべきだ」って方もいるでしょうし、「いやいや公式が制作していない以上アニメも舞台も公式(公認)の二次創作の域を出ないよ」ってお考えの方もいらっしゃるでしょう。
 それはどれが正しくてどれが間違いっていうものではなくて、その人の主義がどうなのかって話だと思っております。そしてわたしは「声が同じものは同じとして見做す派」というだけです(それはもう個人の捉え方の問題だからどうしようもない部分でもあると思うんですが)。

 例えば原作が漫画でアニメになった西洋骨董は、実はあれドラマCDもあって最高なんですけど、あのキャストとアニメのキャストは違うので、わたしにとってあれは同じ2次元でもベツモノです。ドラマは言わずもがな(橘オーナのビジュアルはすごい再現度でしたけど、どんなに似てても声が違うからベツモノです。ちょっと古いですけどるろ剣も同様)。

 声がないものが原作なら、そこから派生するすべての声が乗るものはキャストが同じでない以上ベツモノとして見做します(通じるか判りませんが京極(百鬼夜行シリーズ)とか)。余談ですが京極は、実写のキャスト(と声)がめっちゃ好みだったので、アニメはアンチ派ですが実写は脚本・演出に不満がないわけではないけれどアニメよりは良かった、と…思っています。
 まぁ、内容はどっこいどっこいだった気もしますけどね……(苦笑)

 ――話を戻しましょう。
 わたしの主張は「いくら公式でもキャラの軸がブレるのはどうなんだ」っていう一点に尽きるかなと思います。わたしがBASARAの4・皇・JEと刀剣の花丸に対して感じている…どうにもすっきりしない部分、てのは単純化するとこれなんだと思います。

 4・皇に関しては公式が「パラレル」だと公言してますけど、でもパラレルってハコ――世界設定が異なるだけでキャラは同一個体のはずじゃないですか。わたしも現パロとか書きますけど、それは例えばBASARAなら「戦国時代」っていうハコを「現代」に変えて、そこに「戦国時代のそれぞれのキャラ」を、本質を損なわないように落とし込んで書くわけですよ(実はこれがとても特殊な例とかだったらどうしよう……)
 ただキャラの性格とか行動原理っていうものはそのキャラのバックグラウンドによるところも大きいので、ハコの変更に伴うキャラ付けの根拠となる設定をアレンジする必要なんかは勿論ありますけれど基本的にわたしはそういうスタンスで現パロを書いています。

 だから余計に、(肯定派の方に対して)「公式の名の下に是正され正当だと主張される」のは嫌だなぁと思うし、わたしは(是正も正当だと認めることも)したくないなぁってう…まぁそこはユーザーの我儘ですな。
 どうにかして納得しようとかいうつもりはないです。いくら公式でもあんまり軸がぶれてるものに対しては、「なかったこと」にする――その設定を自分の二次創作内では反映させない、ていう選択権があって良いとも思っています。

 ただ理解はできない。「なんで公式はこうなってしまったの?」と、いう…所謂「解せぬ」ってやつです。
 解せないんですよ。だからすっきりできなくて悶々としてしまう。

 まぁ、ただそういうのは個人の好きでいいと思っています。
 わたしが受け付けないだけで、許容するひとがいても別に構いません。わたしとは価値観の和睦はできないと思いますけれど、それ以外の部分で好みが合えば普通に世間話も萌え話もできますからね。
 そして(わたしには信じ難いことではありますけれど)、一定数肯定派・許容派・容認派が存在するから続編というか新作と言うかが公式から供給されるんでしょうし(ただこれも良し悪しで、BASARAとかあれだけ改悪が続くともうこれ以上新作出して瑕を広げるような真似をしないで欲しいと思わないではない)。

 それでもそういうもので盛り上がれちゃうのを見てるとなんか寂しいんですよねー…わたしは。「わたしが今まで愛でてきたものは何だったんだ? 幻想かな??」みたいになってしまう(苦笑)
 そしてそういう公式を受けて、好きだったかき手さんたちが離脱してしまうのはとても悲しく思ってしまう。

 すると余計にね…個人的な憎しみが加味されてしまうので(苦笑)、公式を尊重できなくなってしまう。
 まぁBASARAの場合は「BASARA○ベース」とか「○バサベース」とかいう逃げ道がありますけど、もうわたしが見たいものは公式から供給されないんだろうなぁ…て思ったら熱がすごく冷めてしまった次第。ネタはまだちょこまかあるんですが、書く気力がない。
(でも春コミがあんまり散々だったから、なんか綺麗な思い出でケジメ付けたいなって、今1月の戦煌に申し込みしようか否か迷っている…ぼっち参加はいろいろ大変だから余計に……)

 話が逸れてしまいましたな。
 同人をかくという行為は、なんというかこう…ちっょと乱暴かもしれませんが、「公式を材料に、都合の良い設定に自分の妄想や希望的観測などを調味料として足して、自分が食べたいものを作る」って感覚なんですよね。
 その場合の「公式」ってのは、所謂原作にあたるものではあるわけですが。
 確かにアニメって媒体は公式が自社制作してない以上(4のアニメルートみたいなカタチでない以上)、派生作品の一つで、公式公認のある意味二次創作ではあるんでしょう。しかし同じビジュアル・同じキャストで公式が公認しているだけに、ただの二次創作であっては困るかなと、わたしは思ってしまうひとなんだってだけなんです。

 なんだろう…コミックだとわかりやすいですかね。コ●ンとか、まぁサンデーに掲載されている青山センセが描かれているものが究極的な原作ですよね。でも、今廃刊になっちゃったのかな? 小学○年生みたいなやつに、原作青山センセで別の人が描いた漫画とか掲載されて、コミックスになってるじゃないですか。公認の二次創作ですけど、でもだからってコ●ンの登場人物がキャラ崩壊してたらいかんと思うんですよ。ゲームとアニメも同じビジュアルで公式のバックがあって展開されているコンテンツなら、同じことが言えるんじゃないかなと思うわけです。ビジュアル然り、キャラ設定然り。

 だからJEは許し難い存在なんですが。
 そして花丸6話も同様。

 ただJEと違って、何故か花丸はTL見る限りにおいて驚くほど許容され歓迎されている。本当に、身内くらいしか見当たらないんですよ…拒絶反応示してる人が(ただ先日拍手で同意のコメをいただいたので、恐らく許容できないひとが一定数いるとは思うのですが驚くほど少数派のようではありますね……)。
 今まで同じ原作を見て妄想を募らせ(笑)、好きな作風だなって御本拝読してきた方がびっくりするくらい許容されているもんだから、余計にね…肩身の狭さも相俟って、

「わたしのキャラ解釈ってそんなに異質?」(いや拗らせてる方だとは思いますけどね)
「『とある本丸』ってのはハコの設定はそれぞれ違うところがあるだろうけど気にしなくていいのよこれは一つの例でしかないから、て意味でキャラ設定(キャラの軸)がブレる理由にはならなくない??」

 と、困惑しているんです。パラレルの定義が違うのかみんな? みたいな……。

 ただ、ふと気付いたのですよ。
 刀剣て支部をカプでタグ検索してキャプション見ると、割と「みんなキャラ考察ってしないの?」って思うモノが多くってですね。ほんと、女体化・現パロのオンパレードですよ。カプに限らずそんな傾向がある(いささか偏見も在るかもしれませんが)。
 そういう現状に対してわたしは支部で開拓するのを諦めて、自分の世界観で自分の考察を突き詰めていく感じの創作をする舵取りをしているので、そもそも花丸に対するハードルが違うのかもしれないなと…気付き…………。

 本当に、今の今まで忘れてたんですよ。
 多分全部その所為なんだろうなと思いました。

 そりゃ考察とか気にしない勢にとっては突然ミュージカル始めようが長谷部くんが口調違いしようがニキの雅を履き違えた描写されようが気にしませんよねぇ…「とある本丸」でなんでも納得しちゃえますよね多分。
 歌仙ちゃんが他人の部屋に無断で入った上クロゼット開けて服勝手に着ちゃったり雅さかんじない愛染のTシャツ着ちゃったりしても怒らないでしょうし、演練だって馴れ合いだと言い切る大倶利伽羅くんがあの茶番に付き合ったって気にしませんよね……。
 

 だから今回ダメージくらってるのは、恐らく自分の中のキャラ観が割としっかりしてる方で(そしてしっかりしてるほどダメージがでかい)、考察とか解釈とかに重きをおいて自分の世界観を追求するタイプのかき手さんであり読み手さんなんじゃないかなと。
 わたしはそんな気が致しました。

 そう思い至るとちょっとすっきりした次第。
 ハードルが違うなら現状にも納得です。
 悶々としている方、もしわたしと同じなら、どうぞ御自身の世界観を大切になさってください。キャラ解釈や考察は深めるのに比例して自分の世界観がしっかり組み上がるのでその人にしか描けないその人だけのセカイが出来上がるしそれが個性となるものだと思います。
 ただ、それが組み上がるのに比例して、和睦できないものが見つけやすくなってしまうという弊害もあります。

 とにかく数を求めるなら、キャラ解釈・考察は緩い方が楽でしょう。枠はでかく緩い方がすくえるものは多くなります。
 自分の世界に拘泥っていくなら数は求められないでしょうが、少なからず共感者は何処かにいるはずなので頑張って探しましょう…お互い。


 わたし個人としては謎が解けてようやくすっきりした気分です。
 もし悶々としているどなたかの御心の慰めになるなら幸いです。
 また、異論は多々あろうかと思いますが、是非を突き詰める気はわたしにありませんので和睦できないところはどうぞ読み流してください。そう考える偏屈なやつがいたもんだと、その広い御心におおさめくださいませ。


 ※拍手とか置いてみる。慰め合いは歓迎ですが争うつもりはありませんのであしからず。
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